光風会の歴史
1912年創立(第1回展)以来の
110回展開催の実績
※戦時中などの諸事情で非開催の年が4回あります
光風会は白馬会解散後に中澤弘光、山本森之助、三宅克己、杉浦非水、岡野 栄、小林鍾吉、跡見 泰の若い7人の発起により創立。
発起人7名の連名で公表された「光風会設立趣意書」によると、「春が来て無意識に咲いた野の草花の様なもの」「隠れた無名の花を自由に紹介する広い花園を開拓した」とし、会の性格と後進の育成の方針としました。
1912年(明治45年)の6月9日より29日まで上野竹之台陳列館において第1回展を開催。またこの展覧会では、展覧会における授賞の嚆矢とされる「今村奨励賞」を設定しました。
三つ葉のクローバーのトリビア
第1回展より初期にシンボルマークとして目録や看板等に使用されたクローバーについては、設立趣意書に登場する花園に咲く野の花の象徴としての説を含めて、それ以外にも、第1回展開催初日の6月9日がちょうどクローバーの開花期にあたること、三つ葉のクローバーの形が光風会の「光」に似ていること、前身の白馬会の「馬」がクローバーを好物としていること、など諸説があります。
大正に入ると、美術収蔵家所蔵の欧州近代画家の美術品の陳列や、多くの洋行者が欧州で学んだ成果を次々と発表しました。
そして、黒田清輝や久米桂一郎などの外光派の流れをくむ印象主義系アカデニズムから出発した光風会は、昭和に入り、自然体の単純描写ではなく、主観を加味した造形的構成的な具象を目指す新しいモダニズムを掲げて大きく発展していきました。
1930年代に入ると、杉浦非水らの尽力によりにより図案作品が少しづつ増え、1934年(昭和9年)に、第10室にポスター、壁掛、屏風などが陳列された図案室が新設され図案部が発足しました。そして1940年(昭和15年)には、現在の工芸部の端緒となる「工芸部」が設置されました。
光風会展に関わる(会員・審査員、出品経験者など)主な著名作家(順不同・敬称略)
- 黒田清輝
- 藤島武二
- 竹久夢二
- 児島虎次郎
- 岡田三郎助
- 和田英作
- 大久保作次郎
- 熊岡美彦
- 靉光
- 棟方志功
- 猪熊玄一郎(弦一郎)
- 内田 巌
- 脇田 和
- 小磯良平
- 赤松麟作
- 三尾公三
- 井出宣通
- 國領經郎
- 他
他美術団体の創立会員に含まれる光風会会員・審査員、光風会展出品経験者(順不同・敬称略)
- 黒田清輝(1913年/国民美術協会)
- 石井柏亭(1913年/日本水彩画会・1936年/一水会)
- 有島生馬(有島壬生馬)他(1914年/二科会・1936年/一水会)
- 中澤弘光 他(1924年/白日会)
- 牧野虎雄(1924年/槐樹社(現/新槐樹社)・1933年/旺玄社(現/旺玄会))
- 岡田三郎助(1931年/日本版画協会)
- 熊岡美彦 他(1932年/東光会)
- 猪熊玄一郎(弦一郎)他(1936年/新制作派協会(現/新制作協会))
- 大久保作次郎(1940年/創元会・1955年/新世紀美術協会)
- 井手宣通 他(1987年/日洋会)
- 他
太平洋戦争の混乱の時期を経て、戦後急成長しつつあった抽象主義にも劣らず、再び新しい具象系写実をめざす美術団体として発展していきました。
1951年(昭和26年)には、急速な出品数の増加よる拡大化に伴って組織としての強化を図るべく、組織改正を行い初代理事長に中澤弘光を選出。
1952年(昭和27年)に国内の美術団体で会館を所有するのは初めてとなる「光風美術会館(光風会館)」が完成し、1956年(昭和31年)には同じく国内の美術団体で初めての社団法人として認可されました。
また、その頃から全国に地方連絡所(旧/支部)が誕生し整い始めました。
その後、フォーヴ(フォーヴィズム)感覚を取り入れた多彩な表現が加わり、さらに平成になると従来の形式に捉われない新しい感覚と自由な発想の作品が新たに光風会の魅力の幅を広げていきました。
1990年(平成2年)には、工芸部主催による第1回明日へのかたち展が開催され、現在に続いています。
新しい光風会館は豊島区要町に2001年(平成13年)に完成し、それまで高田馬場(瀬古ビル)にあった事務所・研究所を移転しました。
また、それまでの上野の東京都美術館で開催していた光風会展は、2007年(平成19年)から六本木の国立新美術館に会場を変えました。
2014年(平成26年)には第100回記念光風会展が盛会に開催されましたがそれも通過点の一つとして、時代は令和に変わっても、光風会は創立以来変わらずに先取の気概と穏健な品位を矜持として、次の時代に向けて力強く邁進しています。